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むぎょっていこう

むぎょの日常と遊戯王と腐女子ネタの長文。

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受け入れてほしいなら暴言をやめてくれ


 むぎょだよ。穏健派だよ。


 インターネットには様々な主張が溢れている。食べ物の好みからゲームのハード、便座の種類から政治的なものまで、あらゆるフィールドで区別と対立がある。

 ぶつかり合いは時に過熱し、罵詈雑言が飛び交うひどい喧嘩にもなる。自らの正当性を声高に掲げる一方で、相手を全否定し人格をズタズタに傷つける暴言を吐き続ける。

 それがいけない。

 ウェブの冷たいところに少し潜れば、口に出すのもはばかられるような言葉がごろごろ転がっている。 文字の暴言というものはひどく厄介だ……人間は意味のある文章を見ると、目で追って意味を理解する反射のようなものがある。汚い言葉が画面に表示された時点で心は蝕まれる。

 殺意を剥き出しにした醜い罵倒は、言わば希釈していない強酸のようなもの。ほんの少し目にしただけで不快な心地がずっと続き、後にも先にも嫌悪感しか残らない。

 では、「互いに個人の主義・主張をおおっぴらにしている前提」でこの醜悪なやり取りを見せ付けられたら一体どうなるか。少し考えればわかる。中学生でもわかる。

 答えは、「汚い言葉を使う人間の主義・主張まで嫌いになる」

 

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 どんなに「これこれこういう理由で○○派が正しい」と論理的な意見を述べられたとしても、直前に「××派は人間のクズ、さっさと死んで世界に詫びろwww」という文言が入っただけで主張の信用度は著しく下がる。そこをわかっていないままで、多くの人間の心を動かすことはできない。むしろ、急速に離反させている。

 左右に関わらず過激な言葉で政治的主張を繰り返す人に、誰も近づきたがらない理由がこれだ。「あんな奴らと一緒にされたくない」から。「自分の品性まで疑われる」から。



 私たちは、人間として尊重されたがっている。互いが一個人であることを認めてほしい、人間の尊厳を保ったまま扱われたい……そういう思いが、今の社会を形作っている。

 そこにいきなり、誰かの人格を踏みにじるような暴言が飛び込んできたら、誰も近づきたくなくなるのは当然のこと。

 誰か一人を思いやれない時点で、他の人間を思いやれる保証はない。ひいては、社会全体及び個人の尊厳が危ぶまれるのだ。よって、誰も相手にしない。ぎゃあぎゃあぴいぴい喚いたところで、知らん振りを決め込めばよいだけの話。騒音もいずれ飽きて去っていくだろう、と。



 相手の主義主張の一部分だけを見て忌み嫌う、という行いは褒められたものではない。見た目で判断するのも良いことではない。しかし、ふるまいだけは能動的な行為であるからして、個人を表す大きな要素なんだ。

 お口の乱暴者には誰も寄らない、寄りつきたくない。できればさっさと新しいおもちゃを見つけて、どこへやらへと去ってほしい。そんな思いを直接的な言葉で叩きつければ、相手と同じ獣に成り下がる。あくまで私は人間、とびっきりの紳士淑女として扱ってほしいから。高貴な沈黙は破られないが、無関心に良く似た嫌悪だけはひっそりと育っていく。



 言葉を選ぼう。敵対勢力を傷つける刃は、味方の信念さえも深く抉る。いつの間にか一人ぼっちになり、その言葉すら意味がなくなってしまうのだから。炎上狙いでもない限り、暴言は百害あって一利なし。

 丁寧な言葉遣いは単なるマナーではない。「その主張を受け入れられるかどうかは別として、対等な人間同士の対話をするつもりがありますよ」という意志表示でもある。そして、意味も根拠もない罵倒を受け入れるつもりはありませんよという宣告でもある。

 無意味で悲しい戦いを失くすためにも、言葉は選ぼう。

 

 

 

 

おわり

 

伝え方が9割

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 ほんそれ